山本五十六人物紹介
山本 五十六 やまもと いそろく 明治17年(1884)~昭和18年(1943)
明治17年(1884)4月旧長岡藩士高野貞吉の六男として玉蔵院町(現 長岡市坂之上町)で生まれる。父56歳の時で五十六と名付けられたという。
明治34年(1901)長岡中学を卒業し海軍兵学校に入学。明治38年(1905)巡洋艦日進に乗組、日本海海戦において左手指と右下腿部に重傷を負う。大正5年(1916)長岡藩家老山本家を継ぎ以後山本姓となる。
大正7年(1918)元会津藩士三橋康守の三女禮子と結婚。翌年4月からアメリカ駐在武官として渡米、ハーバード大学に入学し英語習得に励む。またこの頃欧米諸国をめぐりワシントン軍縮条約後の各国の実態をつぶさに視察した。
大正13年(1924)霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長に就任、後に海軍航空本部長まで歴任し、今後の国防の主力は航空機にあると確信を持ち、一貫して航空戦力の充実に尽力した。
昭和5年(1930)ロンドン軍縮会議の随員。昭和9年(1934)ロンドン軍縮会議予備交渉の海軍代表として出席。海軍軍縮条約の締結が日本の命運を決める重大事と認識し粘り強く交渉を続ける。
昭和11年(1936)海軍次官に就任。当時の海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美らとともに日独伊三国軍事同盟に断固反対の姿勢を貫いた。
昭和14年(1939)連合艦隊司令長官に就任。昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を敢行し未曾有の大戦の指揮をとった。
昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死。死後、元帥府に列せられた。
山本五十六元帥年譜
明治17年 | 4月 | 新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(長岡市坂之上町3丁目)に 生まれる 父は、旧長岡藩士族高野貞吉、母は峰。 父が56歳の時に生まれたので、五十六と命名された、六男 |
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明治23年 | 4月 | 阪之上小学校に入学 |
明治29年 | 4月 | 古志郡立長岡中学校に入学 |
明治34年 | 12月 | 海軍兵学校に入校 |
明治37年 | 11月 | 海軍兵学校を卒業 |
明治38年 | 5月 | 日本海海軍戦において負傷 |
大正5年 | 9月 | 旧長岡藩家老山本家を嗣ぐ |
大正7年 | 8月 | 福島県会津若松市旧会津藩士族の三橋康守の三女禮子と結婚 |
大正8年 | 4月 | アメリカ合衆国駐在、ハーバード大学入学 |
大正12年 | 6月 | 井出謙治大将と欧米各国視察 |
12月 | 海軍大佐 | |
大正13年 | 12月 | 霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長 |
大正14年 | 12月 | アメリカ合衆国日本大使館付武官 |
昭和4年 | 11月 | ロンドン軍縮会議に随員として出席 |
同月 | 海軍少将 | |
昭和5年 | 9月 | 海軍航空本部主任 |
昭和8年 | 10月 | 第一航空戦隊司令長官 |
昭和9年 | 9月 | ロンドン軍縮会議予備交渉の海軍代表 |
11月 | 海軍中将 | |
昭和10年 | 12月 | 海軍航空本部長 |
昭和11年 | 12月 | 海軍次官 |
昭和14年 | 8月 | 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官 |
昭和15年 | 11月 | 海軍大将 |
昭和16年 | 12月 | 真珠湾攻撃 |
昭和17年 | 6月 | ミッドウェー作戦で大敗 |
8月 | ラバウル進出。ガダルカナルの戦い | |
昭和18年 | 4月 | ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死 |
5月 | 元帥 | |
6月 | 国葬 |