展示品のご紹介

 

長官搭乗機の左翼

 連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機の左翼部分。この機には山本のほか副官福崎昇、軍医長高田六郎、参謀樋端久利雄が同乗し、機長小谷立以下大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄の乗員がいた。昭和18年4月18日午前7時30分すぎ、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、アメリカ陸軍の戦闘機の襲撃をうけ墜落し、全員が戦死した。

 昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現した。

山本五十六肖像画 中村大三郎画

 作者の中村大三郎(1898〜1947)は、現代風俗の美人画を得意とする日本画家。派手な色彩を使った日本画は、観る人びとを魅了したといわれている。

 代表作に「髪」「三井寺」「野々宮」などがあり、この山本五十六像は、大三郎の作品として、めずらしいものである。中村大三郎は京都に生まれ、京都絵画専門学校を卒業。母校で教鞭をとり、帝展の審査員となった。

軍艦大和からの書簡(昭和17年10月 目黒真澄宛)

 「長岡も和同会をつぶすような長中根性では当分、格別すぐれた人物は出ない」

 「彼を知り、己を知り」ながら、みすみす危うい道を歩まなければならなかった山本は、昭和17年(1942)10月初旬、長岡中学校同期の親友目黒真澄に宛てた書簡で、こと志と違った自らの悲運を嘆じた。

 ソロモン海戦後、日本海軍が守勢に転じたころで、「アメリカは国力と国民の気力では日本より数等強靭」と断じて真情を吐露している。また、文末では伝統ある和同会の改組、改名を残念なこととし、自らの意志とは違った方向に流れて行く時勢を率直に慨嘆している。

軍艦長門よりの書簡(昭和15年6月20日 渡部與喜子宛)満50年の御薫陶に対し

 渡部家は、渡部與の死(昭和15年5月30日没)を、山本連合艦隊司令長官に知らせなかった。ところが、長官は他から聞き、同年6月12日付で弔詞と香典を送った。それに対し長女の與喜子が、臨終前後の様子を同月15日付で伝えた。この書簡はその返書である。

 明治23年(1890)阪之上尋常小学校入学時1年の担任以来、満50年の御薫陶に対しての謝意が記されている。超多忙な身であっても、先生の恩に感謝し、遺族を温かくいたわる情愛の深い人がらを感じる。

パスポート

 昭和9年(1934)9月、海軍軍縮会議予備交渉に出席する際のパスポート。出発にあたって、自室に西郷隆盛の遺訓「正道を踏み、国をもって倒るるの精神なくんば外国交際は全かるべからず」の書幅を掲げ郷土の友人反町栄一につぎのように語っている。

 「私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立をさせねばならぬ」と。

ワシントン議事堂前の山本 米国駐在大使館付武官

 大正14年(1925)12月1日に命じられ、翌年1月出発、昭和3年(1928)3月に帰国した。職務の一つが、駐在員の監督指導であった。日本で出来ない視察旅行をせよ、そのため日々倹約に努めよ、語学は着任当初数カ月間で習得せよと強調した。

 昭和2年にはワシントンで行われた国際無線電信会議に日本委員として活躍した。同年、アメリカのリンドバーグが世界最初の大西洋横断飛行に成功した。この壮挙を科学的に研究し、海軍航空隊の改善(例、勘尊重飛行から計器飛行への転換)を報告した。

日本人形

 「ますみ」(真珠湾)と、名づけられたこの日本人形は、慰問品のなかから、特に選んで大切にしてきたものである。朝夕、これを見つめて人形になぐさめられた心情ははかりしれない。人形の着物に山本家の家紋がついている。

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