見学あれこれ ~ しなやかかつ強い心で ~ (第10回 9/20更新)
(五十六さんは、どんな人だったのだろう?)を辿(たど)る
『明治~大正~昭和と、 ”激動の世紀をしなやかかつ強い心で生きた” 山本五十六』が皆様に伝わりますよう、こちらのページで少しずつ紹介していきたいと思います。お楽しみいただければ幸いです。
■第10回(2023/09/20記)
当館出入り口(風除室)の壁面には、長岡花火のポスターや他館の企画展告知ポスターなどが掲示されておりますが、五十六さん揮毫の書のポスターも掲示しています。一枚は河井継之助(カワイツギノスケ)の座右の銘を縦書きしたもの、もう一枚は横書きの四文字「心如鐵石」(心は鉄石の如し)です。
この「心如鐵石」(心は鉄石の如し)、展示室には縦書きで、五十六さんの父 高野 貞吉(タカノ サダヨシ)の書を紹介しております。 “心如鐵石 維時明治四十三年一月 為吉田君 八十二歳古道墨” とあり、明治43年(1910)1月、貞吉82歳の時に書かれたものです。 “鉄や石のように堅固な精神、どんな障害にも へこたれない強い心を持て” という教えが込められたものです。貞吉はこの3年後、大正2年(1913)2月に老衰で亡くなり、看病していた妻の峯も、半年後の8月に肺炎で亡くなりました。
五十六さん30歳の頃の「大正3年(1914)12月19日付渡部與宛書簡」では、” ~ 八月二十七日 間もなく逝去致し候次第、両親共に遂に死目にも会へず、葬式にも列せず、武門の常、父の遺訓として敢て残念とも存じ申さず候へども、今両三年と思ふ ふしもこれあり。~ “ と、(もう2、3年生きてて欲しかった…)と母 峯への思いを書き送っています。
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ここで、(故郷の親に会ってないなぁ、よしっ!今度の休みに会いに行ってこよう!!)、はたまた(山本姓になる話はまだなんか~い!!)と、思っている方もおいでかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
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■第9回(2023/08/24記)
日本海海戦での重傷・療養から復帰した五十六さんは、明治39年(1906)2月巡洋艦「須磨」乗組をはじめ次々と海上勤務を経験します。訪問先からは、各地の特色などを短文にしたためた絵葉書を季八(キハチ)兄さん等に送っています。当館展示室「世界をめぐる」のコーナーには季八兄さん宛の絵葉書13葉が展示されており、巡洋艦「阿蘇」・練習艦「宗谷」乗組時に送った絵葉書 ①明治41年12月※(上海) ②明治42年4月※(ロサンゼルス) ③明治42年5月※(サンフランシスコ) ④明治42年5月※(バンクーバー) ⑤明治42年6月※(シアトル) ⑥明治43年5月(メルボルン) ⑦明治43年6月(シンガポール)の絵柄7葉がご覧いただけます。
上記絵葉書のうち、※印の文面は長岡市史双書No.45「山本五十六の書簡」に紹介されていますので、見学の際に見本誌参照・購入(税込1,500円)もおすすめです。
五十六さんは海軍兵学校卒業生の遠洋航海指導で、明治42年(1909)3月には北米へ向かい、同年10月に「宗谷」分隊長心得を経て海軍大尉・「宗谷」分隊長となりました。明治43年(1910)2月からの遠洋航海指導では、宗谷艦長:鈴木貫太郎の薫陶のもと、東南アジア・オーストラリアなどをめぐりました。
20代半ばを迎えた五十六さんの航海は、各地の風土や住む人々の熱気を直接感じることができる、日々発見に満ちたものであったことでしょう。
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ここで、(あれ? 山本姓になる話はいつするのかな??)と思っている方がおいでかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
■第8回(2023/07/14記)
五十六さんが季八兄さんに宛てた手紙に “(一人の友を得)候” と記した人物は、堀悌吉(テイキチ)です。堀さんは明治16年(1883)8月16日 大分県に生まれ、五十六さんと共に海軍兵学校第32期生として学校生活を送ります。明治37年(1904)11月、兵学校を卒業した二人は少尉候補生となります。卒業時は日露戦争の最中で、明治37年(1905)1月 堀さんは戦艦「三笠」に、五十六さんは巡洋艦「日進」に乗組を命じられました。堀さんは、同年5月27・28日の日本海海戦の様子を昭和21年(1946)5月成稿の手記で回想しています。
当館展示室の傍らでは “ 昭和18年12月8日 平田陽光 謹作「山本元帥像」” を展示しております。第2種軍装に白手袋姿の五十六さんが軍刀を携え敬礼する姿の人形です。その左手の人指し指・中指の傷痕は、五十六さんが21歳の時の日本海海戦で重傷を負い切断を余儀なくされた痕です。
そして展示室正面奥には、第一号として五十六さんに贈られた ” 軍人傷痍記章 “ が展示されています。五十六さんが54歳の時に贈られたものです。記章箱の底には “ 昭和13年9月30日下附 海軍次官 山本五十六 ” と自署されており、傷痍記章をどの勲章よりも大切にして喜んでいたことでしょう。
日本海海戦で受けた傷による障害を乗り越えてきた、五十六さんの誇りや様々な心情に思いを寄せて展示品の数々を見たとき、皆様はどのようにお感じになるでしょうか・・・。
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ここで、(21歳のころは高野姓だけど山本姓に改姓したのはなぜだったの?いつから? )と思う方もおいでかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
■第7回(2023/06/15記)
合格者200名中 2番、これは五十六の海軍兵学校入学試験での成績です。五十六の兄:季八(キハチ)は、すべてが試験成績で評価される海軍兵学校で懸命に勉強する弟の健康を心配しました。五十六は兄に宛てて「明治36年(1903)9月23日付書簡」に “ ご心配のほど誠に申し訳これなく万謝奉り候 ” と書いています。 書簡の内容を少々ご紹介しましょう。
兵学校受験前の勉強の様子を ” とても身の如きをもて入学せられむとは 思いもせず、又強て のぞみも致さず候へき。しかし まじめに七月に至るまで五月より高橋※ の階上にて勉強 ” (※高橋=五十六の姉:加壽(カズ)の嫁ぎ先) と綴っています。 また、試験初日の試験の出来栄え・受験後の合否を待つ心境・入学後の試験勉強の様子・早逝した級友や甥の力(チカラ)のこと・一人の友を得たこと等々、当時19歳の五十六さんの感じていたことが具体的に書かれています。
当館受付脇に設けられた販売コーナーで、この手紙を紹介した図書を購入することができます。山本五十六記念館展示図録(税込1,100円)・長岡市史双書No.45「山本五十六の書簡」(税込1,500円)で、ご帰宅後にゆっくり再読はいかがでしょうか。
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ここで (おぉぉ? “一人の友を得候 ” …って誰よ?) と思った方もおいでかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
【追記】長岡の歴史に関する刊行物 “長岡市史双書” は、長岡市立中央図書館文書資料室が発行しております。平成10年4月に長岡市史編さん室の業務と所蔵資料などを引き継いだ資料室は只今移転作業に伴い休館しておりますが、令和5年7月1日に長岡市歴史文書館としてリニューアルオープンします!! 長岡市の古文書や行政資料を公開しているほか、県内の歴史関係の文献を備えており、郷土の歴史について知りたいことや研究したいことを調べることができます。オープン準備の状況は文書資料室ホームページや同サイト内 “職員のつぶやき” からもご覧になれます。7月のリニューアルオープンが楽しみですね。
- 「長岡市歴史文書館」についてはコチラ(長岡市立中央図書館文書資料室ホームページ)
■第6回(2023/05/25記)
五十六さんは明治23年(1890)4月、阪之上尋常小学校へ入学します。明治2年(1869)に創設された国漢学校と米百俵の精神を受け継いだ小学校で、1年生の時の担任は渡部與(ワタベアタヘ)先生でした。渡部先生との交流はこの時からずっと続いていきます。
当館内では、海軍大学校時代に渡部先生に宛てた「大正3年12月19日付書簡」「大正4年4月15日付書簡」のほか、連合艦隊司令長官時代に先生のご家族に宛てた「昭和15年6月20日付書簡」をご覧になれます。
明治29年(1896)3月に小学校を卒業した五十六さんは、明治5年(1872)開学の長岡洋学校を前身とする長岡中学校に「長岡社」の奨学金を受けながら通います。長岡社は明治8年(1875)に小林雄七郎らの提唱によって設立された育英団体です。
展示室のショーケース内には、五十六さんが中学校時代に使用した勉学ノート「不乱苦林」と、英文の小冊子「フランクリン自叙傳」(ジジョデン)が展示されています。ベンジャミン・フランクリン(1706年-1790年)は実業家や科学者としての功績のほか、アメリカの独立運動を指導した政治家としても有名です。展示されている勉学ノート表紙には、“ 不乱苦林 ” ” 明治卅四年正月 “ ※明治34年(1901) などの文字が墨で書かれています。 その年の3月に中学校を卒業する五十六さんの心が伝わってくるようです。
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ここで(5月も半ばだな、五十六さんのように猛勉強しよう!)と張り切っている方もいらっしゃるかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
■第5回(2023/03/08記)
第5回は、五十六さんの家族についてご紹介いたします。戊辰戦争後の明治17年(1884)4月4日、五十六さんは父 高野貞吉(タカノサダヨシ)と母 峯(ミネ)の六男として玉蔵院町(現在 阪之上町3丁目)で生まれました。展示室では、実際の生家の写真「玉蔵院町(阪之上町三)の生家」がご覧になれます。
高野家の兄弟は8人(うち一人は早世)で譲(ユズル)を筆頭に、登・丈三・惣吉・加壽(カズ)・季八(キハチ)と続き、五十六さんは末子です。明治維新後、長兄の譲は北海道で樺戸監獄の看守長を務めており、譲の子供たちは高野家に預けられていました。展示室の生家写真の左隣りには、8歳の頃の五十六「最初の写真」があります。明治25年(1892)4月、当時13歳だった兄 季八(キハチ)が東京の歯医者へ修行に行く前に他家へ嫁いだ姉の加壽がお金を出し、譲の長男 ※五十六の甥 力(チカラ) ・季八・五十六と一緒に写した、記念写真です。この写真から5年後の明治30年(1897)9月、五十六さんが長岡中学2年生の時、甥の力は22歳で病没しました。力が没して6年後、海軍兵学校へすすんだ五十六は兄 季八宛書簡のなかで、力 や故郷を懐かしんでいます。
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ここで(4月4日!誕生日一緒だ!)とか(小中学校時代の五十六さんはどんな少年だった?)などと興味津々の方がいらっしゃるかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
■第4回(2023/02/20記)
第4回は、藩学と山本家・高野家祖先についてご紹介します。長岡藩9代藩主 牧野忠精(タダキヨ)(在任期間1766~1831)の時代、文化5年(1808)に学問所「崇徳館(スウトクカン)」が創立しました。忠精は、京都所司代の頃に古義派の儒学者 伊藤東所(トウショ)に教えを請いました。のちに東所の子 伊藤東岸(トウガン)は、長岡に招聘され文化12年(1815)崇徳館都講を命ぜられます。
古義学は、孔子・孟子の教えの根源を探究しようとする江戸時代の儒学の一派です。忠精を含め藩主6代に仕えた家老 山本老迂齋(ロウウサイ)は、朱子学を修めたのち古義学に入り、自邸内に書堂を設け研修奨励しました。そして、藩主7代に仕え山本老迂齋の信任厚かった高野家4代 高野栄軒(タカノエイケン)も、京都の伊藤東所に書を寄せ疑義を質し古義学に傾倒しました。高野栄軒は、山本老迂斎 の命を受け牧野家 家譜の編修、藩内の学問の興隆に力を尽くしました。その子 余慶(ヨケイ)もまた古義学を学び、伊藤東所とも交流を深め、藩主 忠精とその弟 忠義の侍読として学問の教授と進行に当たりました。
当館では、「高野余慶の著作物」:粒々辛苦録 (リュウリュウシンクロク)』 乾(ケン)・坤(コン)の2冊のほか、伊藤東所撰文の「高野家の祖先、高野栄軒の碑」のパネル展示がご覧になれます。
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ここで(うーん、 そろそろ五十六少年のことが知りたい!)と思った方がいらっしゃるかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
■第3回(2023/01/24記)
第3回は、高野家と長岡藩のルーツについて紹介します。展示室の「年譜」の隣りには『高野五十六の誕生』のコーナーがあります。壁面には「高野家系図」が掲示されていて系図の最上段を見ると・・・ 三河に出生 真田伊豆守家中:宇津七郎左衛門 の 弟の 高野七郎左衛門 が、慶安元年(1648)に牧野家に召し出され、初代長岡藩主 牧野忠成 に仕えた ことが分かります。長岡藩士族 高野家 の始まりです!
なお、長岡藩祖の “牧野忠成” は天正9年(1581)三河国牛久保(現在の愛知県豊川市)に生まれました。徳川家康・秀忠に厚遇された忠成の ”忠” の一字は、徳川秀忠の一字を授けられたものです。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは徳川秀忠に付き出征、慶長19年(1614)の大阪冬の陣・翌年(1615)の大阪夏の陣に参戦し武功を挙げました。そして元和4年(1618)、忠成は長岡藩主(在任期間1618~1655年)となりました。
牧野忠成が長岡藩祖となってから十二代 忠訓まで 長岡藩 牧野家 は続き、長岡藩士族 高野家 は儒学者の家柄として藩主に代々仕えていきます。
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ここで(ふ~ん、儒学者の家系? どんな仕事をしてたの?)と興味を持った方がいらっしゃるかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
- 戦国武将 長岡藩初代藩主 ”牧野忠成” の特集はコチラ(長岡市ホームページ)
- 長岡藩主の資料館「長岡藩主 牧野家資料館」はコチラ(公式ホームページ)
- 長岡の歴史を紹介している「長岡市郷土資料館」はコチラ(長岡市ホームページ)
■第2回(2023/01/11記)
新年を迎え、皆様どのような毎日をお過ごしでしょうか。よい一年となりますよう、関係者・スタッフ一同ご祈念しております。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
第2回は、五十六さんの誕生について紹介いたしましょう。正面壁面ガラス内の”肖像画”と”直筆書簡”の展示を見学後、壁面裏側に移動すると「年譜」が掛けられております。 ”山本五十六のあゆみ~西暦/年号~日本と世界の動き” が簡単にざっくりと、パネルで紹介しています。(五十六さんの年齢は記載されておりませんので頭の体操がてら、生まれた年・西暦1884年を基準に ”暗算” で、年齢を算出してみましょう!)
幕末・戊辰戦争後に元号は「慶応」から「明治」へ変わり、明治17年(1884)4月4日、五十六さんは高野貞吉(タカノサダヨシ)の六男として生まれました。高野家は三河武士を遠祖とし、江戸時代の長岡藩で儒学者として地歩を固めました。祖父・父 ・兄2人は戊辰戦争に参戦、祖父は戦死・高野家も全焼し、戦後再建された木羽葺の小さな家が、五十六さんの生家でした。当館では「玉蔵院町(坂之上町三)の生家」写真をパネルで展示しております。生家・高野家は昭和20年(1945)8月1日の長岡空襲で焼失した後、山本記念公園(昭和33年竣工)内に復元され、今に伝わっております。
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ここで(ん、三河武士…?長岡藩…? どういう繋がりが??)と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、この続きは次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。
- お出掛け情報1 長岡の歴史を紹介している「長岡市郷土資料館」はコチラ(長岡市ホームページ)
- お出掛け情報2 長岡藩主の資料館「長岡藩主 牧野家資料館」はコチラ(公式ホームページ)
- お出掛け情報2-1 牧野家資料館別階フロアの「長岡市立科学博物館」はコチラ(公式ホームページ)
- お出掛け情報3 越後長岡藩 幕末ミュージアム「河井継之助記念館」はコチラ(公式ホームページ)
- お出掛け情報4 長岡空襲(昭和20年8月1日)を語り継ぐ「長岡戦災資料館」はコチラ(長岡市ホームページ)
- お出掛け情報5 山本記念公園についてはコチラ(新潟観光ナビ 公式ホームページ)
■第1回(2022/12/23記)
まず、入館受付をすませた先 正面 壁面ガラスの内には「山本五十六肖像画」が掛けられております。この絵は五十六さんが亡くなった後に描かれたもので、山本五十六記念館展示図録(館内受付で販売中)の表紙にも使われております。
そして、肖像画の下部には、五十六さんが長岡中学校生徒時代に兄 高野季八に宛てて書いた直筆書簡を展示しています。明治32年8月14日付の書簡で、友人達と旅をしたエピソードが書かれています。達筆で的確な表現に圧倒される書簡です。柏崎北条~田尻~番神~米山登山~鉢崎~荒浜~椎谷~尼瀬~出雲崎市街~ ・・・ 新潟県中越地方に馴染みのある地名が書かれています。
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ここで(ん、兄 高野季八…タカノ?山本五十六…? 名字が違うナゼ??)と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、五十六さんの誕生については次回ご紹介いたします。それでは次の機会をこうご期待。